『三国志平話』と『三分事略』中川諭独立行政法人国立公文書館に蔵される『至治新刊全相平話三国志』(以下『三国志平話』と称する)は、周知のように、『三国志演義』が成立する以前の「三国志物語」をまとまった形で伝えるものとして、きわめて貴重な資料である。上。中下三巻に分かれ、版式は半葉二十行行二十字である。上図下文の形式で、一葉の表裏の挿図をあわせて一枚の絵になっている(1)。封面上部には「建安虞氏新刊」と横書きし、その下に「三顧のまた、天理図書館に歳される『至元新刊全相三分事略』(以下『三分事略』と称する)は、版式。内容とも『三国志平話』とほぼ同じもので、『三国志平話』の一版本であると考えられる。ただ封面は、上部に「建安吾堂」その中間に「甲午新刊」とある。さて、『三国志平話』と『三分事略』はそれぞれいつ頃成立し、両者の寧希元氏は「《三国志平話》成書千金代考」(3)の中で、『三国志平話』の中に出てくる南方地域の地名やそれらの位置関係に誤りが多いこと、逆に金王朝が統治していた地域の地理についてはおおよそ『金史』の記述に合致していることから、『三国志乎話』は金代の成立だとする。それに対して卿三祥氏は「《三国志平話成書千金代考》質疑」(。)の中で、寧氏が『三国志平話』自体の記述の誤りに注意しておらず、『三国志平話』では北方地域の地理の記述についても混乱が多くあること、寧氏が挙げている金代の地名は必ずしも金代独特の言い方ではなく、宋元の境にも用いられていたことから、『三国志平話』は必ずしも金代の成立とは言えないと主張していまた『三分事略』の刊行年代について、入矢義高博士は「至元新刊全相三分事略」〈5)の中で、「「甲午新刊」とはあっても、至元年間には甲午はない以上、さらに後の甲午、つまり至正一四年(三一五四)をこれに当てざるを得ない。」と述べて、『三分事略』の刊行年は至正十四年(一三五四)と推定する。陳翔華氏は「小説史上又一部講史平話《三分事略》」(6)の中で、『三分事略』の上中巻巻末および下巻巻頭書名が「照元新刊全柏三分事略」の二度あり、順帝の時の至元年間には「甲午」年はないので、世祖の時の甲午年すなわち至元三十一年(一二九四)を『三分事略』の刊行年とし、『三国志平話』の刊行より三十年あま新潟大学教育人間科学部
三国志平话三分事略.pdf
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