学び2023.5.3
国学ってどんな学問? 基本知識と代表的な国学者もチェック【親子で歴史を学ぶ】
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日本史の授業で国学者について習った記憶はあっても、学問の詳しい内容を理解している人は少ないでしょう。国学がいつ頃誕生し、何を研究していたのかも気になるポイントです。国学誕生の経緯や有名な学者、関連書籍を紹介します。
目次
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国学とは、どんな学問?
「国学(こくがく)」とは、江戸時代に始まった学問のジャンルの一つです。どのような学問なのか、概要を解説します。
日本古来の思想を明らかにする学問
国学は、江戸時代中期以降に発展した学問で、当時は「和学」や「皇学」「古学」などと呼ばれていました。学問の目的は、仏教・儒教が伝わる前から存在した、日本固有の思想や精神を追究することにあります。
国学者たちは、古典の研究を通して、本来の日本のあるべき姿を明らかにしていきました。研究対象となった古典は、「古事記」「日本書紀」といった史書から「万葉集」のような和歌集、「源氏物語」などの文学作品まで多岐に渡ります。
始まりは、元禄の頃とされる
国学は、元禄年間(1688〜1704年)の僧・契沖(けいちゅう)によって始まったといわれています。契沖は、従来の古典研究のやり方を批判し、「実証」を重んずる方法を確立した人物です。1690(元禄3)年に完成した万葉集の解説書「万葉代匠記(まんようだいしょうき)」が高い評価を得て、国学の源となりました。
契沖は1640(寛永17)年に、摂津(せっつ、現在の大阪府北西部及び兵庫県南東部)に生まれます。10代前半から高野山(こうやさん)で修行し、20代で真言宗寺院の住職となります。この頃、歌人であり歌学者の下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)と親交を深めたことで、古典研究の道へ進みました。
「万葉代匠記」の編纂(へんさん)は、もともと水戸藩主の徳川光圀(みつくに)が長流に命じた事業でしたが、病(やまい)に倒れた長流に代わって契沖が完成させたものです。
代表的な国学者「国学の四大人」
契沖の研究成果を受け継ぎ、国学として発展・普及させた代表的な学者4人を「国学の四大人」といいます。四大人は、「したいじん」また「しうし」と読みます。それぞれの出自や功績について、詳しく見ていきましょう。
本格的な国学の始まり「荷田春満」
荷田春満(かだのあずままろ)は、国学の創始者とされる人物です。古典研究を文学的なものから学問へと発展させ、古道(こどう)という思想を明らかにした功績が知られています。
春満は、1669(寛文9)年に、京都・伏見稲荷(ふしみいなり)大社の神官の家に生まれました。若い頃は、神道(しんとう)や和歌の講師として、朝廷・幕府に仕えた経歴を持ちます。
後に、契沖の「万葉代匠記」に影響を受けて古典の研究に打ち込み、国学者となりました。1728(享保13)年には、国学研究の必要性をまとめた書物「創学校啓(そうがっこうけい)」を著し、幕府に国学の学校の創設を訴えています。
東丸(あずままろ)神社(京都市伏見区)。伏見稲荷大社の楼門をくぐってすぐ右手にあり、荷田春満を祀る。境内には、合格祈願・学問向上の絵馬や千羽鶴がびっしり。赤穂浪士の討ち入りの際、春満は吉良邸の見取り図を作って情報を伝えた、といわれる。おもに万葉集を研究した「賀茂真淵」
賀茂真淵(かものまぶち)は荷田春満の弟子で、国学の樹立に貢献した人物です。おもに万葉集を研究し、万葉風の和歌を復興させました。
真淵は、1697(元禄10)年に、遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)で、賀茂(かも)神社の神官の三男として誕生します。30歳を過ぎた頃に上京して春満の弟子となり、古典研究に励みました。
春満が亡くなった後は江戸に行き、50代で8代将軍徳川吉宗(よしむね)の次男・田安宗武(たやすむねたけ)に仕えます。隠居後も江戸に残り、門弟の養成や執筆活動に努めました。
縣居(あがたい)神社(静岡県浜松市)。1839(天保10)年、御祭神である賀茂真淵を崇拝していた当時の浜松藩主・水野忠邦らの尽力で、馬淵の出生地・東伊場町賀茂神社境内に「縣居翁霊社」が創建。1924(大正13)年、現地へ遷座された。もちろん「学問の神様」。古事記の注釈書を執筆「本居宣長」
本居宣長(もとおりのりなが)は、日本最古の歴史書である「古事記」を研究し、解説書「古事記伝」を執筆した功績が知られています。宣長は、1730(享保15)年に、伊勢(現在の三重県)の木綿仲買商(もめんなかがいしょう)の家に生まれます。
しかし商人にはならず、医学を学んで医者として生計を立てていました。医業の傍(かたわ)ら、宣長は「源氏物語」などの古典研究を開始します。30代で賀茂真淵に師事し、「古事記伝」の執筆に着手しました。
難解なあまり、当時の人も読めなかった「古事記」を、分かりやすく解説した宣長の功績は大きく、「古事記伝」は、現在も古代文学や古代史研究における重要な参考文献として活用されています。
本居宣長旧宅(三重県松阪市)。宣長が12歳から72歳で亡くなるまでのほとんどを、この家で暮らした。「鈴屋(すずのや)」と名付けた2階の書斎で執筆の息抜きに鈴を鳴らし、その音色を楽しんだ。1909(明治42)年、保存のために松坂城跡の現在地へ移築された。復古神道の大成者「平田篤胤」
平田篤胤(ひらたあつたね)は、江戸時代後期の国学者です。先人たちが受け継いできた古道を、「復古神道」として大成させました。
篤胤は1776(安永5)年に、出羽(でわ、現在の秋田県・山形県)久保田藩の大和田家に生まれた武士です。後に脱藩して江戸に行き、20代半ば頃に他藩の藩士・平田家の養子となりました。
江戸で、本居宣長の著書を見つけて感銘を受けた篤胤は、夢の中で宣長に弟子入りを許されたと自称し、国学者への道を歩みます。しかし、篤胤の思想は、神道信仰の宗教的色彩が強く、宣長以前の国学者とは異質なものでした。
日本は、もっともすぐれた神の国であるとする篤胤の主張は、幕末の尊王攘夷(そんのうじょうい)論者に大きな影響を与えたとされています。
国学に関係する書籍を紹介
国学についての理解を深めたい人は、関連する書籍を読んでみるとよいでしょう。国学や日本の古典がよく分かる本を2冊紹介します。
「やさしく読む国学」中澤 伸弘
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「やさしく読む国学」は、国学・思想・和歌の歴史の研究者が著した、国学の入門書です。国学の概念や四大人の活動に始まり、日本語の成り立ちや他宗教との関係性、現代における国学の思想まで、国学に関する内容を広く網羅しています。
なぜ古典の研究から日本の姿が分かるのか、なぜ学者たちは古典研究に熱中したのかなど、国学に対する素朴な疑問も、タイトル通り「やさしく」解説してくれます。
「愛と涙と勇気の神様ものがたり まんが古事記」ふわ こういちろう
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「まんが古事記」は、本居宣長が苦労して解読した「古事記」のまんが作品です。難解なイメージのある「古事記」ですが、上巻はヤマタノオロチや因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)など日本人におなじみの話が多く、親しみやすい内容となっています。
「まんが古事記」では、古事記上巻の全ストーリーのほか、中・下巻のダイジェスト、「日本書紀」との違いといった雑学も掲載しています。子どもと一緒に楽しみながら「古事記」を学べるでしょう。
国学を通して、日本の姿を知ろう
国学は古典を手がかりに、外国の文化に影響されない、日本の本来の姿を探求する学問です。グローバル化が進んだ現在、人々の考え方は多様化しており、本来の姿といわれてもピンとこないでしょう。仏教や儒教、蘭学(らんがく)に触れて育った江戸時代の人々も、現代人と同じ思いがあったのかもしれません。
それでも、ときには「古事記」や「源氏物語」などの古典に触れ、当時の人々が何を思っていたのかイメージしてみると、新たな学びを得られるかもしれません。
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構成・文/HugKum編集部
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