改訂新版世界大百科事典「国学」の意味・わかりやすい解説
国学 (こくがく)
日本古代の文学・言語・制度・習俗などを研究し,古代社会に日本文化の固有性をさぐろうとする学問。江戸時代中期に興り,しだいに思想界に勢力を得て幕末に至り,その影響力は明治初期にまで及んだ。はじめは文献学的方法と古代社会の理想化とを特色とする学問潮流として始発したが,やがて古代に民族精神の源泉を求める思想体系の性格を帯び,幕末には日本の歴史的個体性を尊王論と結びつけることでいちじるしくイデオロギー化する。江戸時代には,漢学に対抗して古学・和学・皇朝学・本教学などと呼ばれた。〈国学〉とは本来,律令制度のもとで諸国に置かれた学校を意味する言葉であったが,上記の字義で用いられるようになったのは近世後期のことである。本居宣長の《(ういやまぶみ)》も,〈皇国の事の学をば,和学或は国学などいふならひなれども,そはいたくわろきいひざま也〉と,この呼称には否定的であったが,(なかじまひろたり)の《橿園随筆(かしぞのずいひつ)》(1854)には,〈今云国学は,我国に道なきを恥て,本居の新に建立(たて)たる学〉といった語句が見え,〈国学〉の語義がその内容のイデオロギー化と大きな関係があったことをうかがわせる。この名称が最終的に定着したのは明治時代になってからであった。
第1期
国学の源流は,元禄年間の(しもこうべちようりゆう),(けいちゆう)の日本古典研究にまでさかのぼることができる。長流は武士出身の隠者,契沖は真言宗の僧であったが,ともに中世以来の閉鎖的な堂上歌学やその歌論に批判的であり,伝統の権威にとらわれぬ新しい古典注釈をめざした。契沖が長流の仕事を引きついで完成した《(まんようだいしようき)》は,本文を厳密に校訂し,多くの用例から語義を確定し,かなづかい・語法をも配慮した注釈に特色がある。中世歌学の秘伝主義()に対して,客観的な考証にもとづく研究の基礎をうちたてたといえよう。こうした日本古典学は,まだそれだけでは国学であるとはいえない。契沖に深く傾倒した伏見の神官(かだのあずままろ)は,その万葉研究を受けつぐ一方,《創学校啓》(1728成立)の中で,〈古語通ぜざれば古義明らかならず,古義明らかならざれば古学復せず〉といっているように,契沖の文献学的方法に加えるに独自の復古主義をもってした。この立場は,晩年の春満に師事し,主として宝暦年間(1751-64)に活躍した(かものまぶち)にいたって,国学としての最初の体系化がこころみられることになる。
真淵は主著《万葉考》を執筆のかたわら,《国意考》《》《文意考》《語意考》《書意考》のいわゆる〈五意〉によって,古道・和歌・文章・言語・古文献などの諸学問分野がけっきょくは一つの目標に統合されてゆく構想を提示している。みずから《》にいう〈神皇(かむすめらぎ)の道〉が,その到達点であった。万葉研究から出発した〈歌のまなび〉が,このように〈道のまなび〉と結びついたところから,国学は本格的に始発する。真淵のいう〈道〉は,〈おのづから国につけたる道〉(《国意考》),〈なほく清き千代の古道〉(《歌意考》),〈わがすめら御国の古の道〉(《万葉集大考》)などといろいろに言い替えられているが,それらはいずれも国家が〈天地(あめつち)の心のまにまに治め〉(《国意考》)られていたとされる日本古代の理想化であった。こうした〈古道〉への志向が,その反面として,後世の頽落が〈かの唐ことの渡てよりなすことなり〉(《国意考》)といわれるように,儒学や仏教などの漢文化渡来以後にはじまるとする思想的価値判断につらなっていたことは重要であり,国学の思想化を条件づけていたといえる。
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第2期
その真淵学を継承して,国学の大成者となったのがであった。宣長もまた,歌学および古典研究から出発する。青春期の京都遊学時代に,まず儒学の師から受けた影響は大きく,中でもその塾で契沖の著書に接したことと,(おぎゆうそらい)の古文辞学にふれたことは,後の宣長学の形成にあたって決定的であった。徂徠が中国古典を対象として駆使していた文献実証の方法は,その方向を日本古代にふりむけて,後年,畢生の大著《》を宣長に完成させる重大な示唆を与えたといってよいであろう。また,真淵との出会いから触発された和歌や物語の研究は,歌論の処女作《(あしわけおぶね)》に始まって,《(いそのかみのささめごと)》《新古今集美濃の家づと》《古今集遠鏡(とおかがみ)》《》などの著述のうちに着々と成果をあげる。それらの歌論・物語論をつらぬいているのは,つとに宝暦年間,独自の創見に達していた有名な〈〉の論に要約される主情主義的な人間観であった。宣長学は,同時代の儒学の道徳主義的人間像を排して,あるがままの心情にさからわぬ人性の自然を思想の根本に据えた。文学とは,そうした心情のおのずからなる発露であるとされ,ここに〈言〉は〈事〉であるとする宣長独特の言語観が輪郭を示されることになる。〈言〉と〈事〉とのこの始原的合一が具現され,人間が無意識に〈道〉と抱合していた時代こそが日本古代にほかならず,《古事記伝》はまさにその理想的状態を復原しようとする研究作業であった。
この大著を完成した晩年の宣長は,古代の事跡に明らかであるとする人間の生き方を〈天照大御神(あまてらすおおみかみ)の道〉〈天皇(すめらみこと)の天下(あめがした)をしろしめす道〉(《初山踏》)と呼んでいる。〈皇朝の学問〉は,まずこの意味での〈道〉の学問を頂点とし,そこにいたる過程として,歴史の学,有識故実の学,歌文の学,神典学などの分野がひろがるとする学問の整然たる体系がここに組織される。〈古言をしらでは,古意はしられず,古意をしらでは,古の道は知りがたかるべし〉(《初山踏》)というのが,宣長学の基本的な階梯であった。さきに真淵学のうちに構想されていた学問体系は,思想的にもみごとな整合性に達したといえよう。また,その目的のために古言を正確に理解する必須の補助学問として着手された,漢字音,かなづかい,てにをは,用言の活用などについての研究が,《漢字三音考(かんじさんおんこう)》《(ことばのたまのお)》《御国詞活用抄(みくにことばかつようしよう)》などの国語研究上の業績に結晶していることも見のがしてはならない。これらの仕事は,(ふじたになりあきら),(すずきあきら),(もとおりはるにわ)などの次代の学者に受けつがれ,今日の国語学の基礎をかたちづくっていったのである。
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第3期
宣長の死後,国学は大きくいって二つの流れに分かれる一時期を迎える。もともと宣長の学問体系は,〈古へを記せる語(ことば)の外には,何の隠れたる意(こころ)をも理(ことわり)をも,こめたるものにあらず〉(《古事記伝》)という立場から本文を読む古文献絶対尊重主義につらぬかれ,そこからまた,上代の超自然の事柄もまじえた神話的記述についても,これを無条件に信じるという態度を保っていた。こうした古道信仰の心性は,そのまま同時代の人間にも要請される。宣長学がその核心部分に一つの思想原理を所有していたゆえんである。まさにその〈道〉への志向性を強烈に,また極端におしすすめたのが,文化年間,宣長の死後の門弟と自称し,宣長学の正統を継承したと揚言して一家言をとなえた(ひらたあつたね)であった。この篤胤学は多くの点で宣長学とは異質である。第1に,宣長の文献実証主義とは反対に,篤胤がその神典として撰定した《古史成文》は,記紀その他の古文献から自己の古道信仰に都合のよい部分を任意に選び出して編集したものである。第2に,篤胤はその学を〈平田神道〉とも呼ばれるくらいに国学の神道化を推進したが,その際,宣長学がまったく無関心であった人間の死後の世界のこともその教義中に取り入れ,いちじるしく宗教色を強めた。のみならず,儒学,仏教はもとより,キリスト教までが日本の正史の伝承の訛伝(よこなまり)であるとして,日本普遍思想ともいうべき排外主義への傾斜を深め,国学のイデオロギー化への一転機をもたらしたのである。
一方,真淵の門弟だった(むらたはるみ)は,真淵が人に教えた〈道〉とは,〈歌のまなびと,古書を解釈する学〉(《明道書》1804編)以上のものではなかったとする信念から,宣長の古道信仰に対してはこれを〈付会の説〉と評してきわめて批判的であった。古学を思想的な〈道〉の理念に結びつけることに冷静な距離を保ったのである。その周辺に,《》を書いて史実の考証につとめた(ばんのぶとも),古文献の考勘学および制度学に異彩を放った(かりやえきさい)などの非イデオローグ的な学者たちが集まったのも決して偶然ではなかった。
明治維新期前後の国学
幕末にいたると,国学はさらに国学運動と呼ぶべきものへの変質を示す。国学固有の復古思想が朝廷尊信の心情と結びつき,当初から潜在していた排外主義が激発的に攘夷思想とつながるのがこの時期の特色である。とりわけ目だつのが篤胤学系統の活動であり,明確な政治思想の観を呈する。つとに天保年間,大塩平八郎の一党と称して越後柏崎で挙兵した(いくたよろず)をはじめ,平田一門には政治的直接行動への参加の事例が多い。またその反面,歴史・制度学系統の流れが,伝統的な農村共同体の観念に根ざした(しやしよく)の学を掘り起こしていたことも見落としてはならない。また,幕末期の国学がその総体として儒学に逆影響を与え,〈広義の国学を基礎とし国体を宣明し儒学を参酌して〉(徳川斉昭《弘道館記》1838述)という語句にも見られるように,後期の成立に思想的な刺激をもたらしたことも重要であろう。明治新政権の成立の後,維新変革の実現のために多大なエネルギーを提供していた国学運動はそのはけ口を見失う。明治初年代の廃仏毀釈運動,あるいは熊本神風連の乱などの士族反乱への参加を最後に,明治政府の近代化政策に対する幻滅と失意のうちに国学運動は凋落し,広義の国学もまたその思想史上の役割を終えて歴史の舞台から退場する。
→[研究史]
執筆者:野口 武彦
国学 (こくがく)
日本古代の地方教育機関。大宰府に府学,諸国に国学が一校ずつ設置された。学生は国司が郡司の子弟のうち,13~16歳で聡明なものをえらび,不足の場合や医生は庶人の子弟を入学させた。国の等級に従い,学生は50・40・30・20名,医生は10・8・6・4名の定員がある。教官には国博士,国医師各1名のほかに国郡司で儒学の経書に精通している者がなる。試験は国司が行う。その教科は中央の大学と典薬寮の医生とほぼ同一と考えられる。757年(天平宝字1)に講経生,傅生,医生,針生,天文生,陰陽生,暦算生をおいている。二経に通じ,試験に合格したものは官人とし,また中央の大学に進む道も開けていた。最初から教官の人材難になやみ,3,4ヵ国に1人の国博士をおいた時期もあった。全国的に設置されていたことは明らかであるが,11世紀には全国的に衰退して消滅した。国博士らは一般国司と同一の仕事に従事したこともある。その遺跡は大宰府のものを除き,ほとんど明らかになっていない。
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執筆者:山田 英雄
出典株式会社平凡社「改訂新版世界大百科事典」改訂新版世界大百科事典について情報
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